〜僕たち、私たちの青春グラフ〜

■1970年 福生 横田 東京 

福生は写真を撮るためによく通った。初めて行った1967年の冬はまだベトナム戦争たけなわのときで、基地のフェンスの外に広がる米軍ハウス地区には、子供たちが大勢遊んでいた。フェンスの中ではないので、一緒に遊びながら撮影した。今思えば質素な平屋だが、昔は洒落た建物に思えた。

■1973年     七里ガ浜 神奈川 

1972年から1975年の間、僕は著名な写真家のアシスタントだった。猛烈に忙しくそれでも写真を撮りたくてうずうずしていた。休みの時は、いつもカメラを持っていろいろな場所に行った。この頃は同世代の連中を撮っていた。一番興味のあったのがこの世代だったし、ほとんど遊ぶ暇がなかった僕には、彼等が羨ましくも思えていた。声をかけて撮らせてというと、今と違って、「何に載るの?」ではなく、皆一様に「どうして写真を撮るの?」だった。僕は、「君たちがかっこいいからだよ」というと、ニコニコしてカメラに収まってくれた。

■1967年     市川市中国分 千葉  

僕は何を撮るかの目的もなく、ひたすら写真を撮りたくて、家の周りを歩き回った。テーマはいつも日常だった。日常の中のほんのちょっとのドラマや、不思議さに惹かれた。この時代、いやもっと前だろう僕が幼かった頃、そこらじゅうに原っぱがあった。この頃には既に消えかけていた。有刺鉄線のある風景も懐かしい。

■1971年     横浜新港埠頭 神奈川

どうにか大学を卒業したものの、就職はなかった。でもこの頃猛然と写真を撮っていた。写真を撮ることが楽しく何の不安もなかった。この時代ハーフの娘がたくさんいた。モデルもハーフじゃなければ、モデルじゃないといった時代だった。アメリカンスクールに通うガールフレンドたちを横浜に連れて行った。写真を撮る為だ。流行のパンタロンにマキシコート。かっこよかった。今でも名前を覚えている。フランシー、ジュリー、アイリーンだ。

■1968年11月22日 東大本郷 東京

この年世界中で、スチューデント・パワーの嵐が吹き巻いた大学も、5月にバリケード封鎖され(僕も参加した)たが、その後バリケードの中は何も起きなかった。夏になりひとりふたり減り、教室はガランとしていた。僕は8月にバリケードから出た。神田カルチェラタン、11.21新宿騒乱、そして11.22。翌年1月安田講堂は機動隊により陥落した。

■1968年10月21日 新宿 東京

この日、口コミで、新宿で何かがあるとビシビシ感じていた。夜になると新宿の街は騒然とした。やがてデモ隊が方々から終結した。異様な盛り上がりだった。機動隊の装甲車が新宿の街を取り囲んでいた。破壊された東口の鋼鉄のフェンスから、デモ隊は駅構内になだれ込んだ。僕もその後に続いた。投石が機動隊を押し遣った。何しろ今と違い線路は石ばかりだったからだ。どのくらい時間がたったろう、僕はたくさんの写真を撮った。突然機動隊が動き出し、代々木と新大久保方面から挟み撃ちにしてきた。僕はパニックになりながらも、新宿ステーションビルの一階に小さな明かりを見つけた。何人がその小さな窓に飛び込んだろうか。そこは男子トイレだった。そこに逃げ果せた皆は捕まらなかった安堵感を噛み締めながらも、息があがっていた。東口のロータリーに戻ると、装甲車が炎上していた。