「私を見て、ぎゅっと愛して」
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真実の愛とは何か?ブログ文学の地平を切り開く

私を見て、ぎゅっと愛して 七井翔子著

読者の声
『私を見て、ぎゅっと愛して』の読者から多くの感想をいただきました。
その一部を、ここでご紹介させていただきます。
 
黒夜行さん
『愛する』という言葉が、これほど深く、これほど痛く、これほど強く突き刺さる作品を、かつて僕は読んだことがない。
先に言い訳をしてしまおう。
僕は、この作品の感想をうまく書ける自信がない。僕の言葉できちんと語るには、僕の文章はあまりに貧弱だ。稚拙であり、洗練さに欠ける。本作で著者が紡ぐ日本語の美しさ、文章の見事さに、僕は圧倒されている。
それでも僕は、必死で僕の言葉を掴まえる。僕の元に燦々と降り注ぐ、著者の美しい言葉たち。その欠片を拾い集めてでも、僕は感想を書こうと思います。
人間が愛し合うということに、神様はどんな意味を持たせたのだろう?そんな疑問が、ふと僕の心を過ぎる。
愛し合うということ。それは、簡単なことではない。
僕らは、『人を好きになる』ということを、比較的簡単にしてしまう。最近は特にそうではないか、と思う。『好き』という言葉の意味が、どんどんと変わっていく。めまぐるしく。『好き』であることが、『愛している』ということでなくなったのは、一体いつの頃からだろう?
僕らは、『好き』と『愛している』を使い分ける。無意識のうちに僕らは、言い訳を用意している。『好き』だけど、『愛してはいない』と。
だから、愛し合ってもいないカップルが、街中に溢れかえる。ぎらつくネオンの瞬きに呼応するように、カップルがまた一組と、夜の闇に現れては消えていく。
誰もが、孤独を抱えている。孤独を紛らわすためだけに、誰かを『好き』になる。自分の孤独を埋めてくれるならば誰でもいい。孤独を忘れさせてくれるなら何でもいい。僕らはいつだって悲鳴を上げている。自分の上げた悲鳴を聞きたくなくて、けれど誰かを『愛する』には少し怖くって。そうやって、逃げる。逃げて逃げて逃げていく。
わかってしまう。
僕は、七井翔子という女性を理解できてしまう。理解できてしまうことが正しいのか間違っているのか。たぶん、それを問うことが、既に間違っているのだろう。そう信じたい。
時折『純愛』がブームになる。
ただ、『純愛』とは何かと聞かれて、答えられる人がどれだけいるだろう。
僕にもわからない。
『純愛』というものは、作られすぎているように感じてしまう。どこか『純愛』というものに、醒めた視線を投げかけてしまうという人もいることだろう。作り物の中にしか、『純愛』は存在しえない。僕はそう思う。
だからこそ僕は、本作は『純愛』ではない、と書こうと思う。何故ならば、本作は作り物ではないからだ。
その文章から、そしてその奥に透けて見える七井翔子という女性から、『愛する』ということに対する真摯な感情が、まるで風に乗って流れてくるように伝わってくる。あらゆる五感を刺激して止まないその風は、僕らの元へと届き、ふんわりと心を撫でていく。ゆったりと心を洗い流していく。
しかし、同時に僕らは、七井翔子という女性の心の奥深くに巣食う、どす黒いカタマリのようなものも見ることになる。それは、僕らに嫌悪感を与えるかもしれない。何故なら、僕らの中にもあるかもしれないものだからだ。このカタマリの煤け具合が、本作を『純愛』にしていない。徹底的に、苦しいまでに『愛する』ということを追求していながら、一方で醜いカタマリが常にまとわりつく。これが現実という重みであるし、逃げてはいけない現実なのだと、ひどく感傷的な気分になったりもする。
本作で七井翔子自身が産み落とす、自らの汚点とも言うべきカタマリ。それは、同じ形ではないにしろ、誰しもが持っているはずのものだと思う。誰もが、どうしようもなく寂しく、どうしようもなく孤独で、それでも一人を抱えて生きている。誰と一緒に生きていても、誰かと同じ道を歩いていても、どこかで必ず、自分が一人であるという事実を突きつけられる。
一人で生きていくんだということ。
現実を見据えるということは、いつだって厳しい。
誰かに頼ってもいいけど、依存してはいけないだろう。
誰かを愛してもいいけど、独占してはいけないだろう。
人は生きているうちに様々に学ぶ。
しかし、学んでも学んでもどうにもしようがないことに僕らは躓く。
『愛する』ということもその一つだ。
僕は、今まで『好き』になった人のことを思い出してみる。学生時代は、好きな人はいたけど、恋愛なんかしたことはなかった。自分の一方的な『好き』を、相手に伝えることもしなかった。僕は、『好き』を閉じ込め、何もかも押し込めた狭い世界の中で生きてきた。その中で、僕はどこかに忘れ物をしてきてしまった気がする。
取りに戻ることのできない落し物。僕はそれを今、出来るだけ取り戻そうと、バラバラになったジグソーパズルを組み立てるようにして、バラバラになった何かを組み立てているような気がする。
今まで『好き』になった人のことを思い出してみる。
その人達を『愛して』いたかと僕は自分自身に問い掛けてみる。
すぐに答えがでる問いではない。
一生答えの出ない問いかもしれない。
ただ、いつかその問いに答えの出せる関係に出会いたい。
その答えを共有できる人と日々を過ごしてみたい。
孤独を埋めるために誰かを必要とするのは、少し寂しい。
孤独を共有するような付き合いも、どこか冷たい。
孤独に関係なく、一個の人間として、ただ『好き』なだけではなく、『愛して』いると強く信じられる関係に出会うことができればいい。その困難に至る過程を、僕は耐えられるだろうか?
『私を 見て、ぎゅっと 愛して』
できれば、こんなこと、言わせたくないと思う。
自分でも一体何を書いているのかわからなくなってくる。そろそろ内容に入ろうと思います。
まずは、本作の成立過程について。
本作は、七井翔子(仮名だそうです)という女性が、2003年12月15日から2005年2月1日まで、「翔子の出愛系日記」というHPに掲載された日記を書籍化したものです。
著者は、素人の一般女性。
著作は、フィクションではない事実を綴った日記。
僕も、手に取った時には、まあWeb本だからなぁ、とそこまでの期待はしなかった。これだけ世の中に個人の日記が溢れている中で、どれだけアクセスの多いサイトであろうと、所詮は素人の日記だろう。そういう感覚があった。
とんでもなかった。
そこらに無数に存在するWeb本と一緒にしてはいけない。そんなものとは端からレベルが違うのである。
ざっとではあるが、どんな内容なのかという点に触れよう。
七井翔子は、出会い系で知り合った男と、日々セックスを繰り返す。それはもう、衝動と言ってもいいもので、自分でも抑え切れない。
彼氏は、ちゃんといる。
彼氏のことは、かけがいのない存在だ。既に結婚の約束までしている。セックスは淡白であまり満足はできないが、優しい彼だ。
それでも翔子は、出会い系を止められない。誰かに抱かれていないと、誰かに肌の温もりを感じていないと、不安で仕方がない。
実は、アダルトチルドレンという状態に翔子はある。アダルトチルドレンというものは病名ではない。しかし、その状態からあらゆる病気が派生する。彼女は、定期的に精神科に通っている。名木という名の担当医師と、とても気が合う。
仕事は、塾の講師だ。生徒からも塾からも評判がいい。優秀な講師である。人付き合いは苦手な方だが、若林という男性講師とは、冗談を言い合えるいい仲だ。
翔子のことを、病気のことまで含めてとても理解してくれる親友がいる。幼稚園の頃からの親友、由香。彼女にだけは、出会い系で男と寝ていることも話している。包み込むような包容力。彼女がいるから、翔子は生きていられる。
翔子の日常は、緩やかな波を描きながら、壊れるでもなく成長するでもなく、偽りの安定を保って過ぎていく。しかし、徐々に崩壊の兆しが見えてくる。少しずつ、綻んでくる。私は寂しいのに、私は孤独なのに、みんなが私から離れていってしまう…。
というような話を、日々の日記に載せて文章にしたものです。
本作の何が素晴らしいのか。
文章の素晴らしさ。
事実と信じることが難しいくらい波乱の展開。
この二点である。
まず、文章が美しい。揺るがない清廉さを持つ文章は、読む人の心を簡単に揺さぶる。ふと触れた言葉が胸を打ち、ふと触れた文章が胸を焦がす。七井翔子という女性の内面が、汚い面も綺麗な面も、隠すことなくさらけだされているその文章は、しかしどこまでも美しさを損なわない。性的なモチーフを題材にした絵画作品を見て美しいと感じる感覚と似ているかもしれない。
日記の中で七井翔子は、言葉を口にするのは苦手だけれども、文章にするのは楽しい、と書いている。確かに、彼女にとって内面を文章にすることは、一種安定剤の役割を果たしていたらしい。それにしても、ここまで見事な文章を書ける人がどれだけいるだろう。僕も同じくこうやってブログで文章を垂れ流している一人であるけれども、自分の文章が恥ずかしく思えてくる。それくらい、文章が突出してうまい。僕は、実は本作はある作家が覆面で書いた小説なんです、と言われてもまったく驚かないだろう。むしろ、そうであって欲しいと願ってすらいるかもしれない。
そして、七井翔子を取り巻く状況の展開が、事実だとは思えないくらい激しいのである。まさに、ドラマを見ているような展開で、事実は小説よりも奇なりという言葉の意味を、まざまざと見せ付けられた形である。とにかく、出てくる人間がありとあらゆる恋愛の形を追う。その多くは、どれも救われないものばかりだ。『好き』になることも『愛する』こともできるのに、『愛し合う』ことだけが出来ない。そして、その中心に七井翔子がいる。
あらゆる人間が傷つき、あらゆる人間が人生の転換を図る。誰に対しても誠実であろうとする心と、どうしようもなく不誠実を求める体。孤独を埋めるために、隣を歩く誰かを求めるあまりに、彼女は何か大きなものを抱えていくことになる。小さな雪玉が転がって大きくなるように、彼女の人生は、転落と共に余分な何かを常に背負うようなものだ。
映画にもなる「嫌われ松子の一生」という作品がある。あの作品の中で、松子という女性はかなり辛い人生を送る。しかし、本作の七井翔子も、それに負けない辛い人生を送る。激動、と言っても大げさではないかもしれない。それだけのモノが、それだけの想いが、本作には詰まっている。
僕の中では、リリー・フランキーの「東京タワー」を超えました。今年読んだ本のトップ10には間違いなく入るでしょう。僕は書店員なので、やろうと思えば「本屋大賞」に投票できるのですが、もし投票するならこの作品にするでしょう。僕は文庫担当なので、本来ならば本作を売り場に出すとかそういう決定権はないのですが、文芸の担当と交渉して、本作を売り場に置くことに決めました。とにかく、一冊でも多く売って、一冊でも多くの人に読んでもらいたい。それほどに素晴らしい本です。
僕は本作を古本屋で買ったのですが、正直、本作を新刊で買わなかったことを後悔しています。というのも、本作の帯にこんな文句があるからです。
『本書の印税は全額、著者の意向により小児がんで苦しむ子どもたちのために寄付されます。』
著者は、一切の印税を受け取らずに、全額を寄付するのだそうです。「電車男」の、二次使用権は全額新潟の震災被災者に寄付する、というのに似ていますが、全額というのは素晴らしいと思います。
僕は基本的に偽善者なのですが、それとは関係なく、本作は新刊で買えばよかったなと思います。本を買うことで寄付に参加できるというのは、悪くない、と思います。
このサイトを見てくれている方がどんな方たちかはわかりませんが、お願いがあります。本作を広める努力をしてはもらえないでしょうか?もちろん、近くの書店に置いてあるとは限りません。新聞に何度か載ったようですが、それほど話題になっている作品でもありません。でも、僕はどうしてもこの作品をいろんな人に読んで欲しいと思っています。書店員の方、見てましたらあなたの書店に本作を置きませんか?メディア関係者の方、見てましたら何かで特集を組んではもらえませんか?本の感想のブログを持っている方、見てましたらあなたのサイトに感想を載せてくれませんか?他にも、周りの人に、こういう本があるみたい、ネットである人が大絶賛してたよ、と広めてくれるだけでも構いません。
僕は正直、本作に恋をしてしまったようです。ちょっとこの一年、何とかして本作を売ってあらゆる人に読んで欲しい、そう願っています。できるかどうかはわかりませんが、本作にはそれだけの価値があります。
どうかこの記事を読んでださった方、是非とも本作を読んで見てください。そして、もし素晴らしい作品だと思えたら、それを周りに広めてください。よろしくおねがいします。
黒夜行さん HP「444冊目からの読書日記」
 
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